ガイドブック2022
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QAQA●●●032デザインされた「御朱印船」には建学の理念であるフロンティア・スピリットが込められています 徳川家康の「伊賀越え」を助けたことで有名な茶屋四郎次郎は、本学園の創立者の先祖で、当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしがあります。茶屋は本姓を「中島」と称し、清和天皇の流れをくむ武家の名門・小笠原源氏の末流です。 また約400年前の江戸時代初期、まだ海外への渡航が命がけであった時代に、茶屋四郎次郎の三男、新四郎の息子、新六郎が朱印船船長としてこの「御朱印船」で荒波を乗り越え、遠く安南(現在のベトナム)にまで渡航していました。そして、海外貿易に従事し、徳川幕府の成立に協力しました。 また、「本能寺の変」のとき、明智光秀に命を狙われる立場に立たされた徳川家康が自分の領地である岡崎まで脱出する間、茶屋四郎次郎は徳川家康が襲われないように小判をまいて護衛をして道案内をし、徳川家康の「伊賀越え」を助けたことでも広く知られています。 もし、茶屋四郎次郎がいなかったら、江戸時代も明治維新も、そして我々が生きているこの21世紀の世の中も違ったものになっていたことでしょう。徳川家康の「伊賀越え」を助け、その恩によって武士でありながら江戸徳川家の呉服御用を一手に引き受け、側近や代官の役割を務めた。海外への渡航が困難だった時代に「御朱印船」で安南(現ベトナム)まで渡航。海外貿易に従事し、徳川幕府成立に協力。御朱印船貿易によって大きく富み栄え、江戸中期まで「京の三大長者」と呼ばれた。茶屋四郎次郎清延夫婦像茶屋船交趾渡航貿易絵巻〔部分〕名古屋市・情妙寺蔵 紙本着色71.8×511.7cm 愛知県指定文化財丸の内校舎前に立つ名古屋市教育委員会の史跡案内板 「茶屋船交趾渡航貿易絵巻」は、茶屋新六郎が朱印船船長として長崎を出航し、インドシナ半島の交趾国(ベトナム南部)の港町に着き、ベトナムの国王に貢物を献上する様子が描かれたもので、朱印船貿易時代の日本人の海外交易活動状況を知る上での大変貴重な資料です。 本絵巻は尾州茶屋家初代長意が慶安年間に建立した情妙寺に茶屋家より納められました。日本史の教科書にも掲載されています。 尾州(名古屋市)の茶屋新四郎長吉は、尾張徳川家に仕え、さまざまな事業に携わりました。御朱印船貿易も手掛けていましたが、鎖国後、海外貿易ができなくなってからは新田開発を行いました。名古屋市港区には茶屋新田・後新田という地名が今日まで残っています。 名古屋城近く、丸の内の尾州(名古屋市)茶屋家屋敷跡には本学系列の保育・介護・ビジネス名古屋専門学校の校舎があり、名古屋市教育委員会による茶屋新四郎宅跡に関する立札も立っています。東京福祉大学グループ創立者の先祖である茶屋四郎次郎。茶屋四郎次郎の三男・新四郎の息子・新六郎が朱印船船長として約400年前に行った御朱印船貿易に懸けたチャレンジ精神やそれで得た国際的な広い視野を、今の学生たちに伝えていきたい__。東京福祉大学グループの理念には本学創立者である総長・学長の強い思いが込められています。茶屋家より情妙寺に納められた朱印船貿易時代の貴重な資料 本学園は、茶屋四郎次郎の子孫で、尾州(名古屋市)茶屋家第17代当主が創立しました。本学園では、社会変動の激しい21世紀に活躍できる、柔軟で合理的な思考、国際的な広い視野、未知の問題に取り組む思考力・創造力とチャレンジ精神、国民のために尽くそうとする心をもった人材の育成をめざしています。 命がけで未知の世界に飛び込み、わが国の発展のために尽くした冒険者の精神、国際的な広い視野、人のために尽くそうとした茶屋四郎次郎・新四郎・新六郎の心。こうした精神は、時代が変わった現在でも生きているものだと私たちは考えます。 東京福祉大学&短期大学部、そして理学・作業名古屋専門学校、保育・介護・ビジネス名古屋専門学校の校章には、大海を行く「御朱印船」がデザインされています。これは、未来を切り開く開拓精神=フロンティア・スピリットをイメージしたものです。本学系列の保育・介護・ビジネス名古屋専門学校は豪商・尾州(名古屋市)茶屋家屋敷跡にあります茶屋四郎次郎・新四郎・新六郎の遺した偉業の数々本学創立者の先祖にあたる、歴史的偉人茶屋四郎次郎ってどんな人?徳川家康を助け、徳川幕府による江戸時代の繁栄に協力。彼の存在なくして、現在の日本は存在しなかった本学と茶屋四郎次郎との深い関係とは?茶屋四郎次郎の子孫、茶屋家第17代当主が創立し、校章には大海を渡る御朱印船がモチーフに茶屋四郎次郎の歴史と偉業

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